杉山メモ( ..)φ

いよいよ寒さが身にしみる季節になってきましたね。
エアコンのお掃除の成果なのか、暖房の効きが何となく良くなった気がします。
これからの数カ月は、電気料金が跳ね上がる季節ですぅ

今日の記事は個人的なメモ替わり。
先月の終わりに杉山さんのインタビューが、5日連続で新聞に掲載されました。
日経新聞夕刊の「こころの玉手箱」というコーナーです。
登録すれば Web(電子)版を1週間無料体験出来るということだったので、読ませてもらいました~。
せっかく保存したけれども、どこに保存しておけば良いかわからなくて、結局はこのブログにアップしておくのが自分的に一番確実かなぁという結論になりまして
ということで、コピペした文章を貼りつけておきます。
興味のある方はいらっしゃらないと思いますが(汗)、あまり深く追求しないでくださいませ。
 
<こころの玉手箱>(2016年10月24日~28日)

音楽家 杉山清貴(1) ふるさと磯子の商店街

ふるさとが僕という人間のほとんどをつくった。生まれてから大人になるまで暮らした海岸近くの街、横浜市磯子区磯子。思い出すのは人のにぎやかさだ。母が三味線と日本舞踊の先生で、実家の稽古場はお弟子さんが朝から晩まで出入りしていた。警察官だった父も同僚や部下を家に上げて酒を飲むのが好きだったから、家ではいつも誰かの陽気な声が響いていた。

40~50年前は、あの街でずっと暮らしている人が多くて、住人のみんなが顔見知り。家の近くに全長100メートルほどの商店街「浜マーケット」があった。なかの店にお使いの買い物に行くたび、店の人に「おう!」と声をかけられて世間話をした。信号を無視して横断歩道を渡ろうとすると、近所の大人に「ダメよ!」と首根っこをつかまれて叱られた。何をするにも人と接する環境で生きた僕は、人間が大好きになった。

嗜好の面でも影響は強い。年末になるとマーケット内の八百屋に手伝いに行った。お昼休みは商店街の食堂で焼きそばをよく注文したが、店のおばちゃんがご飯も付けてくれるのが常で、僕は焼きそばをおかずに米を食べた。だから僕は今でも焼きそばとご飯をセットで食べる。そういう食習慣とか生活習慣の起点も大体があの街に行き着く。

中学は区内の少し離れた公立校に、高校は横須賀市の私立高に進学した。そこでも良い触れ合いがあった。中学2年の時の文化祭でビートルズのコピーバンドで演奏を披露。それを見ていた英語教師が「俺はおまえに音楽をやることを勧める」と言った。不真面目だった僕の頭をはたいてばっかりの怖い先生だったから驚いて、心に残った。

高校3年時の進路選択の際、やりたいことがないから芸大に入って絵を描こうと漠然と決めた。予備校に行くが、やる気は出ない。授業をサボり、家や公園でギターを弾いて歌っていた。予備校の先生はそれを叱りもせず「音楽の道に進め。やりたいことをやるのが一番だ」と笑って言った。

僕は音楽が好きだが、仕事にしようと考えたことはない。だけど周りの大人が背中を押してくれて、自分の潜在意識を確認してミュージシャンを志すようになった。普通なら反対されそうだが、両親も磯子の人も関わった人たちがみんな応援してくれた。幸せな少年時代を過ごしたなと思う。


音楽家 杉山清貴(2) バングラデシュ難民救済コンサート

「音楽は、こんなにたくさんの人を動かすんだ」。公演を見て、感動で魂が震えた。米ニューヨークで1971年に開かれたバングラデシュ難民救済コンサート。僕は当時12歳で、現地には行っていない。その翌年、日本でライブフィルムが上映され、僕は横浜・伊勢佐木町の映画館で圧巻のステージに見入った。

公演を主導したのは、敬愛するジョージ・ハリスン。ビートルズのギタリストとして活躍し、解散後はソロで活動していた。71年の内戦で1千万人以上の難民が生まれ、飢餓や感染症で子供が次々と死んでいく同国の現状をジョージは深く憂える。そして難民を救おうと、立ち上がった。

チャリティーライブが一般的ではなかった時代。昼夜2回で約2万人を集めた同コンサートは、その先駆けだった。ジョージの呼びかけで集結したミュージシャンはエリック・クラプトン、ボブ・ディラン、リンゴ・スター……、ビッグネームばかりだ。

僕は、100分を超える公演の最初から最後まで興奮しっぱなし。白の上下スーツに赤のシャツで登場したジョージは神々しい。大きな歓声に迎えられて舞台に現れたボブ・ディランと並んで演奏する姿が、絶妙に格好よかった。クラプトンは少し後ろに下がって、たばこを吸いながらギターを弾いている。ドラムのリンゴ・スターは、独特のリズムの取り方で彼だけの音を存分に響かせていた。

こんな豪華なメンバーで「ヒア・カムズ・ザ・サン」「風に吹かれて」といった名曲をやるのだから、客席のどよめき、ざわめきはすごかった。「キャー」とか「ウォー」ではない。おなかではなく魂から出ているかのような叫びだ。

公演のためにジョージがつくった「バングラデシュ」が最後の曲。「君たちの助けがほしい そして理解してほしい バングラデシュの人々を救おう」と歌った時の会場が沸騰する様子を見て、僕は「音楽で世界は救えるんだ」と思った。

年を重ねても決して忘れないコンサート。当時の僕がジョージのマネをしたくて、伊勢佐木町の店で赤いシャツを買って帰ったこともありありと覚えている。


音楽家 杉山清貴(3) 「ウルトラマン・キヨタカ」のフィギュア

1995年、僕はハワイで暮らしていた。早朝の海岸を歩いていた時、ある人を思い出した。ウルトラマンで知られる円谷プロダクション第3代社長の円谷皐(のぼる)さんで、同年6月に60歳で死去。振り返ると切なくなって、亡くなった人のために初めて曲をつくった。「夜明け前」という歌だ。

歌詞はこう。「あなたが見てた夢は今も生きつづけて この海の向こうの子供達にも必ず届いている」「愛しあう事のすばらしさを語ってた 瞳の奥で 信じ合う事の美しさを語ってた どんな時代でも」。皐さんはドリーマーだった。

初めてお会いしたのが94年だった。僕がよく行く都内のすし店で皐さんの長男、一夫さんとたまたま一緒になり話したところ「杉山さんの曲を聴いている」と言う。僕も大好きなウルトラマンへの愛を熱弁し、一夫さんが「それならば」と皐さんを紹介してくれた。

そして僕のラジオ番組に皐さんが出演してくれた。少し後に食事にも行った。顔を合わせて話したのは、この2回だけ。なのに心と心がぴったりとハモる感覚があり、僕は彼を大切な人だと思うようになった。

「子供にはニコニコしてほしいよなあ」と何度も言った。ウルトラマンの生みの親の父・英二氏と演出家の兄・一氏が相次いで他界し、73年、38歳の若さで円谷プロ社長に就任。以降の自身が関わったシリーズを挙げながら「ただの怪獣映画にはしたくない。ウルトラマンを子供たちにもっと身近な存在になるようにしたい」と熱く語っていた。

その表れが自ら制作を総指揮した「ウルトラマンキッズ」だろう。ヒーローや怪獣を2頭身にデフォルメした愛嬌(あいきょう)あるキャラクターを考案。80年代~90年代にテレビ放送もされた。

「面白い作品にするのは当たり前だ。子供にどんなメッセージを伝えられるかが勝負なんだ」。ますます燃えていたが、残念ながら志半ばで逝ってしまった。

皐さんは僕のためウルトラマンをつくってくれた。ハワイの平和を守る「ウルトラマン・キヨタカ」。フィギュアは自宅にある。ヒーローを見るたび、あのキラキラした瞳を思い出す。


音楽家 杉山清貴(4) ボディボード

「楽しいぜ。ハワイによく行くんだから、やってみなよ」。バックバンドでキーボードを弾いていた同年代のミュージシャンに薦められたのが、ボディボードだった。1980年代末、僕が30歳のとき。「大きいビート板だろぉ!」と口で小ばかにしながら、こっそりやってみた。結果、ずっぽりとはまってしまった。

僕の人生は海を中心にまわり始める。服装はサーフ系に。移動中に読む雑誌はギターマガジンからサーフィン誌に。その頃、テレビ番組「笑っていいとも!」のトークコーナー「テレフォンショッキング」に出演したが、時間いっぱいまでボディボードの宣伝しかしなかったのは語り草だ。

そんなことを繰りかえすうちに「杉山といえばボディボード」と世間に認められるように。92年、贈り物が届く。神奈川県茅ケ崎市で専門店を経営する社長が「進呈します」と、高級品をプレゼントしてくれた。うれしくて、このボードは思い出の品として今も大切に保管している。

海は僕の音楽も変えた。バンドのオメガトライブ時代から海を歌っているが、ラブソングのシチュエーションなど脇役にすぎなかった。それが「海の良さ、楽しさを教えてあげたい」と完全に主役になっていく。

目指したのが、もっと波乗りに聴いてもらえる音楽だった。海の仲間の様子をうかがっても、僕の音楽はそれほど聴かれていない。サーファーに好きになってもらえるようなメロディーと歌詞、編曲にこだわった。20年ぐらい突き進んだが、全くの見当違いだった。

7、8年前、周囲を冷静に見つめられる時が不意に訪れた。みんながアイドルのAKB48などを普通に聴いているのを見て「ああ、そっか」と悟った。「いい音楽であれば波乗りでも、そうでなくても好きになってくれるよね」。波乗り向けに偏っていた僕の音楽性が、幅広い大衆向けにとバランスを取り戻したのだ。

以前は「さらに波乗りにうけるメロディーを、歌詞を」などと欲が出て苦しい時もあったが、自分の中からあふれる音楽を素直に表現できるようになった。今は音楽が本当に楽しい。


音楽家 杉山清貴(5) ビーチ・クリーン・ライブ

「浜が鳴かない」。全国有数の「鳴き砂」で知られる京都府京丹後市の琴引浜で1980年代半ばから、こんな声が上がり始めた。浜を歩いてもキュッキュッという独特の音がしないという。原因はタバコの灰だった。灰が入り込み、砂の粒子の摩擦を妨げていた。

地元の人々が浜を元に戻そうと立ち上がる。大勢によるビーチの清掃を企画し、人を集める手段として僕が呼ばれた。94年に「はだしのコンサート」を開催。入場券は浜辺で拾ったゴミを入れた袋で、友人の関西のミュージシャンらと競演したところ好評だった。

住民がボランティアで始めた活動は徐々に行政を巻き込み、環境改善が進められている。コンサートは象徴として毎年開かれるようになった。軌道に乗ったため僕はこの10年ぐらい参加していない。こうしたビーチ・クリーン・ライブは各地に広がり、そこでの取り組みを続けている。

96年から神奈川県鎌倉市の由比ガ浜で、2003年からは鹿児島県日置市の江口浜で毎年開催。きれいになった砂浜に腰を下ろしてもらい、リラックスして音楽を聴いてもらっている。

当然だが僕にとっても仕事ではない。ボランティアだ。なぜ長く関わっているかというと、日本人の海に対する意識を変えたいという思いがある。

かつて暮らしたハワイでは、子供の頃から海の大切さを親と学校の先生に繰り返し教わる。身近な自然を守る感覚は地域の人々に当たり前のようにあって、誰かが先導しなくても皆が清掃などを熱心にやる。一方、日本はどうか。多くの人が夏だけ行って泳いで帰ってくるだけで、その後は放置。環境保全への意識が低い。地元の人も、海は海水浴客やサーファーのもので自分たちに関係ない、と考える人がたくさんいる。

「汚してはダメなんだ」と、1人1人が海に目を向けてほしい。僕は海の歌を歌って生計をたててきた。趣味で波乗りを始めて、もっと人生が豊かになった。海に恩返しがしたい。できることを少しずつでもやっていこうと考えている。

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はい、興味のある人です
なんだかご無沙汰してしまいました

こんなことになっていたなんと気づきませんでした

まだ年末でもないのに、なんだか、身辺が
騒がしくて日々の暮らしでお腹がいっぱいでした

しましまさん、ありがとうございます
楽しく読ませていただきました




>Rさん、こんばんは。
日経新聞というお堅い紙面への登場ですが、内容はご本人の人となりがわかる良い記事ですよね。
読んでいただけて良かったです(^^)

いろいろとお忙しいようですが、これから寒さが厳しくなりますので体調に気をつけてくださいね。
いつも家族のために頑張っているRさんに、素敵なご褒美がありますように。。。
来年は今年よりもご一緒できる機会が増えることを願っています。
天使のハート
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Author:しましまゼブラ
いくつになっても明るく楽しくまったり生きてます(笑)
流れに任せて2010年4月より、鍼の治療院を開業中!!

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